平泉の文化遺産

平泉の歴史

奥州藤原氏前史

「平泉の文化遺産」を生んだ奥州の歴史 I

前九年合戦

 今からおよそ950年前の平安時代中期、「安倍氏」という豪族が、岩手県の中央から県南にかけて勢力を広げていました。頭領である安倍頼時は大きな力を持つようになり、この力を恐れた朝廷は、武士である源頼義を陸奥守として派遣し、安倍頼時・貞任親子と戦争を始めます。
 安倍氏と源頼義・義家親子との合戦は、およそ12年間にわたり続けられ、多くの兵士が傷つき、倒れていきました。
 源頼義親子は苦戦しましたが、秋田で勢力を広げていた豪族、清原武則を味方につけ、ついに安倍氏を滅ぼしました。この合戦を「前九年合戦」といいます。
 この戦で、安倍頼時・貞任親子は戦死し、頼時の娘の夫である藤原経清も源頼義によって殺されてしまいます。しかしその後、頼時の娘は7歳になる息子をつれて清原家の息子武貞と再婚することになったのです。その息子こそが、のちの「藤原清衡」です。

前九年合戦(1051年~1062年)

 戦いの鍵を握っていたのは、清原氏でした。源頼義は、必死の思いで清原氏に応援を頼みます。清原氏を味方につけた頼義軍は、安倍氏の拠点だった衣川関を破り、安倍軍は厨川柵(盛岡市)までしりぞきます。戦いは半月にもおよびますが、ついに安倍氏は滅びました。

後三年合戦

 安倍一族が滅んだ「前九年合戦」から20年後、安倍氏を滅ぼした清原家で跡継ぎ問題をめぐり、兄弟同士(真衡・清衡・家衡)の間で争いが起こりました。長男真衡の死後、清衡と家衡の争いになり、さらに朝廷から陸奥守として派遣されていた源義家が、清衡軍に加わって大きな戦争に発展しました。この合戦を「後三年合戦」といいます。この合戦で清原氏は滅亡し、清衡は生き延びました。清衡はその後、江刺から平泉に館やかたを移しました。
 約100年にわたる黄金文化、平泉の歴史はここから始まります。

後三年合戦(1083年~1087年)

 前九年合戦の後、清原家の間で起こった争いの中で清衡は力を付けていきます。
 清衡は、前九年合戦では敵だった源義家(頼義の息子)の応援を得て、戦いに勝利したのです。この合戦により、清衡は昔の安倍氏の領土はもちろん、清原氏(秋田県)の領土まで勢力を伸ばしていくことになります。

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